日本人として初めてアメリカ大陸に上陸した人物、ジョン万次郎についてご紹介します。
日本人として初めてアメリカに上陸
1827年、土佐清水市中浜に生まれた万次郎は、貧しい家庭の次男として、2人の兄弟と3人の姉妹に囲まれて育ちました。
彼が14歳になった1841年1月、初漁の日に、仲間4人と共に8メートルの小さな船で海に出たところ、3日後に嵐に遭遇し、漂流することになります。
その後6日間漂流した末、土佐清水市から約760キロ南の太平洋上の無人島、鳥島に流れ着きます。
ここで約半年間、過酷な生活を送った後、143日後にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されますが、彼らの運命は予想外の方向へと進んでいきます。
当時、日本は鎖国政策をとっており、外国船の接近は困難でした。
万次郎たちは日本への帰還が叶わず、もし帰国できたとしても、外国人との接触が理由で命を落とす可能性もありました。
実際、1837年には、漂流者を救助し浦賀に入港しようとしたアメリカ船モリソン号が撃退される事件が起きていました。
ジョン・ハウランド号のウイリアム・H・ホイットフィールド船長(当時36歳)は、5人の漂流者を安全なハワイへ連れて行きますが、万次郎はアメリカへ渡るという大胆な決断をします。
船長は彼の決意を受け入れ、他の4人をハワイに残し、万次郎を連れて帰途につきます。
万次郎の鋭い観察力と積極的な姿勢は船員たちに認められ、彼はジョン・ハウランド号から取った「ジョン・マン」という愛称で呼ばれるようになりました。
1843年、救出から2年後、船はアメリカ最大の捕鯨基地であるマサチューセッツ州ニューベットフォードに到着します。
万次郎はこの時、日本人として初めてアメリカ本土に足を踏み入れたのでした。
万次郎のアメリカでの生活
万次郎が訪れたアメリカは、西部が開拓されていた時代でした。
彼を救出したホイットフィールド船長は、ジョン・マンと呼ばれるようになった万次郎を、自分の子のように大切に思い、自宅のあるフェアヘーブンに連れて行き、英語や数学、測量、航海術、造船技術などの教育を施しました。
これが、日本人として初めての留学生の誕生でした。
学業を終えた万次郎は、捕鯨船に乗り込み、世界の七つの海を航海しました。
彼が二度目の航海からフェアヘーブンに戻った時、カリフォルニアでゴールドラッシュが起こっていました。
日本への帰国資金を得るため、万次郎は西部へと向かい、600ドルを稼ぎ、その後すぐに漂流した仲間たちがいるハワイへと旅立ちました。
1851年2月、万次郎は2人の仲間と共に琉球(現在の沖縄県)に上陸し、漂流してから10年が経っていました。
彼は約半年間、琉球で足止めを受けた後、薩摩、長崎へと護送され、取り調べを受けました。
そして翌年の夏、ようやく故郷の土佐に帰ることができたのです。
日本へ帰国後大出世
万次郎が高知に戻った後、土佐藩から士分に列せられました。
この時代において、身分制度が厳格に守られていた中で、彼の昇進は異例の出来事でした。
当時、幕府や各藩は西洋の最新情報を求めており、万次郎の経験が重宝されたのでしょう。
この時期に、彼は名字帯刀を許され、出身地「中浜」を名乗ることになり、中浜万次郎として知られるようになりました。
1853年6月、ペリー提督が率いる黒船が来航したのは、万次郎が帰国してから2年後のことで、幕末の動乱の時代が始まりました。
幕府は万次郎を江戸に召喚し、彼はアメリカに関する知識を老中たちに伝えました。
しかし、その能力が逆に彼を疑われる原因となり、水戸藩などの保守的な藩からはアメリカのスパイではないかと疑われ、ペリーの2回目の来航時には通訳から外されるなど、彼の活躍の場は限られることもありました。
日本開国
万次郎は、その後も翻訳や造船、航海、測量、捕鯨などの分野で活躍を続けていました。
彼にとって大きな転機が訪れたのは1860年、33歳の時でした。
この年、幕府は「日米修好通商条約」の批准に伴い、初めての公式な海外使節団をアメリカへ派遣することになり、万次郎は随行艦「咸臨丸」に乗り込み、通訳および実質的な船長として重要な役割を果たしました。
この咸臨丸の太平洋横断は、鎖国の終焉を象徴する出来事であり、船上には勝海舟や福沢諭吉といった歴史的に重要な人物も同乗していました。
帰国後も万次郎の活動は止まらず、小笠原の開拓調査、捕鯨、薩摩藩の開成所での教授職、上海への渡航、明治政府の開成学校(後の東京大学)での教授職、さらにはアメリカやヨーロッパへの渡航など、多岐にわたる分野で精力的に働き続けました。
彼の充実した生涯は71歳で幕を閉じました。
万次郎の功績
万次郎は、日本の近代化の幕開けにあたる時代に、日本とアメリカの間で重要な役割を果たし、数々の功績を残しました。
彼の業績が歴史の中で長らく忘れ去られていた理由は不明ですが、実はアメリカでは日本以上に高く評価されていたのです。
アメリカの第30代大統領クーリッジは、万次郎の帰国を「アメリカが初めて大使を日本に派遣したことに匹敵する」と述べています。
また、アメリカ建国200周年の際、ワシントンのスミソニアン研究所で開催された「海外からの米国訪問者展」では、チャールズ・ディケンズなど29人の著名人と共に万次郎が選ばれました。
坂本龍馬の外国への目覚めも、万次郎の体験談に触発されたものでした。
ペリー来航の翌年に土佐に戻った龍馬は、蘭学に通じた土佐の代表的な絵師・河田小龍から、万次郎のアメリカでの生活や民主主義について学び、近代国家建設のビジョンを描いたとされています。
また、万次郎は板垣退助、中江兆民、岩崎弥太郎など多くの著名人に影響を与えたと言われています。
国際化が進む現代において、彼の波瀾万丈の人生と功績が再評価されつつあります。時代が再び万次郎を求めているのかもしれません。
現在、ジョン万次郎は銅像となり、足摺岬の入口に立っています。
彼はそこから遠く第二の故郷であるアメリカ「フェアヘーブン」を見つめ、今もなお夢の航海を続けているようです。
まとめ
万次郎は、日本の近代化において日米の架け橋となり、多くの業績を残したが、その功績はアメリカで特に高く評価されていた。彼は坂本龍馬や他の多くの著名人に影響を与え、現代においてもその評価は高まっています。